歌舞伎などで語られる八百屋お七の伝説が色こく残る鈴ヶ森刑場跡地。心霊現象が起こると噂され、恐れられながらも観光スポットとして人気があります。鈴ヶ森刑場跡地が心霊スポットとなったのは、過去の長い歴史から垣間見ることができます。そこで、歴史や心霊現象を紹介します。
悲惨な歴史が伝わる「鈴ヶ森刑場」
東京都の品川にある鈴ヶ森刑場跡地。心霊スポットとして全国的に有名な場所になるので、名前を聞いたことがあるのではないでしょうか?多くの人に、怖い場所として認識されている鈴ヶ森刑場跡ですが、長い歴史を知るもとができる観光スポットです。
1954年には東京都指定文化財の指定を受けた場所になり、歴史的遺跡も残っている場所です。ですが、多くの心霊現象が起こる場所として、目撃談や体験談も多い場所です。
当記事では、鈴ヶ森刑場跡地の長い歴史や数ある心霊現象について触れていきます。なぜ、心霊現象が起きてしまうのかを歴史の中から見ていきましょう。
品川区にある江戸時代の処刑場の跡地
鈴ヶ森刑場は、江戸時代に多くの人を処刑してきた処刑場跡地の一つになります。江戸の北側には小塚原刑場が刑場が設置されていて、南側に鈴ヶ森刑場を設置したとされています。
実際に使用されていた処刑場が跡地として残っている鈴ヶ森刑場跡地は、処刑された多くの人の怨念が残る場所とも言われています。
現在は日蓮宗大経寺の境内にある
鈴ヶ森刑場跡地が現在あるのは日蓮宗大経寺の境内になるのですが、日蓮宗大経寺は鈴ヶ森刑場で処刑された無縁受刑者を供養するために建てられたと言われています。鈴ヶ森刑場が廃止された後も、檀家を取らずに供養を専門として行い続けています。
鈴ヶ森刑と同じ時代に堂宇は建設されていて、鈴ヶ森刑場に最も縁が深いお寺と言えるでしょう。そんな日蓮宗大経寺の境内に鈴ヶ森刑場跡地はあるので、静かに見学するようにしましょう。
処刑場の見学は自由にできる
日蓮宗大経寺の境内にある鈴ヶ森刑場跡地になりますが、遺跡も含め誰でも自由に見学をすることができるようになっています。江戸時代に使用されていた遺跡として、説明文なども記載されていますので観光してみてはいかがでしょうか。
心霊スポットとして有名な鈴ヶ森刑場になりますので、供養の気持ちを持って見学をするのが良いでしょう。
「鈴ヶ森刑場」の基本情報
名称 | 鈴ヶ森刑場跡 |
住所 | 東京都品川区南大井2-5-6 (大経寺内) |
アクセス | 京急線大森海岸駅から徒歩で約7分 首都高速1号羽田線鈴ヶ森ICから車で約10分 |
駐車場 | 無 |
「鈴ヶ森刑場」の歴史について
鈴ヶ森刑場跡地は江戸時代に使用されていた処刑場になるので、長い歴史がある遺跡になります。そんな処刑場になるのですが、細かい歴史を知らない人は多いです。
そこで、まずは鈴ヶ森刑場の歴史について解説していきます。見学する時も、歴史を知って見るのと知らないで見るのでは大違いです。見に行く前にしっかりチェックしておきましょう。
歴史①1651年に開設
鈴ヶ森刑場が開設されたのは、今から300年以上昔の1651年になります。鈴ヶ森刑場が設置された当時は、浪人の数はとても多かったとされています。それに伴って急増していったのが、浪人による犯罪行為になったと言われています。
このことから、江戸時代の当時は浪人に対する見せしめとして設置されたと考えられたいます。江戸で犯罪行為を犯したらどうなるかを知らしめるには、処刑場が一番効果的だったのでしょう。
江戸の南の入口東海道沿いにあった
江戸の北側の入り口にあった処刑場が、小塚原処刑場になります。その反対側の南の入り口に設置されていたのが、鈴ヶ森処刑場になります。南側は東海道沿いにあり多くの人が出入りする江戸の入り口の一つでした。
先述したように、浪人に対しての見せしめとして処刑場を置くなら、浪人が出入りする入り口が最適だったと考えられています。
歴史②最初の処刑者は丸橋忠弥
江戸時代に起こったとされる「慶安の変」をご存知ですか?急増した浪人の中には立身出世を絶った幕府に対する不満が多く、反乱を企てたとされています。計画は密告によって阻止される形になりましたが、この時の首謀者の一人丸橋忠弥は処刑されました。
その処刑された場所が、鈴ヶ森刑場になります。そして、鈴ヶ森刑場が設置されて最初の処刑者となりました。ですが、処刑場に連れて行かれた丸橋忠弥は死んでいたのですが、磔にされ処刑をされました。
他にも平井権八や天一坊に八百屋お七など
およそ130人近くの人を辻斬りし、自首をした平井権八。徳川家の御落胤と発し虚偽である事がバレてしまった天一坊。恋人に会うために放火事件を起こした八百屋お七。
歴史的に名前が残る人たちが処刑されたのも、鈴ヶ森刑場になります。処刑方法は異なっていますが、多くの人が処刑された中でも特に重大事件とされていたと考えられています。
歴史③1871年に閉鎖
江戸時代に設置された鈴ヶ森刑場になりますが、閉鎖されたのは明治時代に入ってからになります。実際に使用されていたのは220年という長い期間になり、多くの人を処刑していました。
近代には供養塔も建てられているのですが、閉鎖されてからもそのまま残していたのには、当時には意味があったのかもしれません。
約10万~20万人が処刑されたと言われる
鈴ヶ森刑場の処刑者には歴史的に名前が残っている有名な人もいますが、処刑された大半が有名な人ではありませんでした。220年という長い期間の間には多くの犯罪者が処刑されたのですが、その数は約10万から20万人と言われています。
正確な処刑者の人数は現在でもわからないままになっていますので、もちかしたらもっと多くの人達が処刑されたのかもしれません。
また、鈴ヶ森刑場が設置されていた当時は東京湾が近くにありました。そのため、キリシタンの処刑には鈴ヶ森刑場ではなく東京湾を利用し水磔にしていたとされてます。
歴史④1954年に東京都指定史跡に!
明治時代に閉鎖された鈴ヶ森刑場になりますが、使用されている姿で残っていることもあり昭和の時代1954年に東京都指定史跡に認定されました。
遺跡の中でも価値が高いとされている鈴ヶ森刑場。史跡として選定されてからは、観光スポットの一つに変わっていき多くの人が当時の歴史に想いを馳せながら見学する場所になりました。
火炙台や磔台・井戸など遺跡がある
鈴ヶ森刑場の遺跡として有名なのが、当時使用されていた火炙で使用された鉄柱や磔で使用されていた木柱を立てたとされる礎石になります。位置は変わってしまいますが、歴史的遺跡の一つになります。多くの処刑者に使用された遺跡は一見の価値があります。
遺跡として残っているのは礎石だけではありません。処刑された人の首を洗ったと言われる井戸も残っています。遺跡として残っている井戸は、金網が設置されているため中を見ることはできなくなっています。見学に行く時は、一つ一つの遺跡もゆっくり見てください。
「鈴ヶ森刑場」の八百屋お七伝説とは?
鈴ヶ森刑場で処刑された八百屋お七ですが、歌舞伎をはじめ、文学や芸能などさまざまな分野で作品とされています。そのため、鈴ヶ森刑場で処刑された人の中では、一番有名な人物となります。
そんな八百屋お七がなぜ処刑されてしまったのか。なぜ、有名な人物になってしまったのか。鈴ヶ森刑場で伝わる八百屋お七伝説について紹介していきます。
お七は恋人に会いたいため放火事件を起こした
1683年1月25日に死者数3500人近くになる火災「天和の大火」がありました。この火災によってお七は家を焼け出されてしまい両親とともに正仙院に避難したとされています。そのお寺で出会ったのが、お七と恋仲になる生田庄之介。
ですが、家が立て直されお七は寺を出なくてはいけませんでした。そこでお七が考えたのが、もう一度火事で家を出されたら会うことができるのでは?という事でした。その結果、お七は自宅に火をつけ放火を起こしたとされています。
放火犯で火炙りの刑に処される
お七の放火事件はすぐに火が消されたためボヤ騒ぎになりましたが、その放火事件でお七は賭博される事になりました。そして、1683年にお七は鈴ヶ森刑場で処刑されこの世を去ることになりました。
お七の処刑は、火炙りで行われたとされています。これは、放火事件を起こしたため火炙りが選ばれたと考えられています。また、天和の大火もお七火事と呼ばれることがありますが、天和の大火はお七が起こした火事とは別になります。
井原西鶴の「好色五人女」に取り上げられ有名に!
多くの歌舞伎や映画などで取り上げられている八百屋お七になりますが、お七の名前が後世に残るほど有名になったのは井原西鶴の「好色五人女」に取り上げられた事がキッカケとなります。
好色五人女の中で語られている恋仲の名前は、別名になっています。ですが、現在語られている八百屋お七のモデルとなっている作品になります。
現代でも歌舞伎や浄瑠璃で演じられている
色々な形で演じられる八百屋お七になりますが、最も有名なのが歌舞伎になります。歌舞伎で一番はじめ演じられたのは1706年となり、とても評判が良かったと言われてます。また、歌舞伎だけではなく浄瑠璃で演じられることもあり人気がありました。
浄瑠璃で最も人気があったのは1715年の八百屋お七になります。悲劇が加えられる形で演じられていたこともあり、当時は大盛況だったと言われています。
お七の伝説には諸説ある
お七が放火をしたことで火炙りにされたという事実は残されていますが、八百屋お七の生涯や経緯については全く異なる内容になっています。恋仲になった相手の名前も異なり、演じられる作品や小説の内容でも異なっています。
そのため、諸説ある八百屋お七になりますが、新しく取り上げられて作品になる度に脚色が加えられていると考えられています。
「鈴ヶ森刑場」で噂の心霊現象について
ここまで、鈴ヶ森刑場の歴史や処刑された八百屋お七についてを紹介してきました。220年という長い歴史のある遺跡が原因となるのか、鈴ヶ森刑場には心霊現象が多発しています。多くの人が目撃している話なども残る場所になります。
ここでは、心霊スポットとしての鈴ヶ森刑場に触れていきます。どのような心霊現象が起こっているかを紹介していくので、鈴ヶ森刑場に心霊スポット巡りで行くときには参考にしましょう。
心霊現象①着物を着た女性の霊
鈴ヶ森刑場跡地で多くの人が目撃しているのが「白い着物を着た女性」と言われてます。女性の幽霊が目撃されているのは、処刑された人の首を洗ってたと言われる「首洗井戸」になります。
この場所にでる女性の幽霊は、写真にも撮られたことから有名な話になります。かつて、処刑されてしまった受刑者の一人だったのではないでしょうか。
心霊現象②処刑された罪人たちの霊
10万から20万人は処刑されたと言われている鈴ヶ森刑場になりますが、当時は無実の人や罪をなすりつけられて処刑された人も多いと考えられています。そのため、恨みによる怨念はとても強いと言われている心霊スポットです。
そのような場所になるので、浮かばれることがなく彷徨い続ける霊が多い場所と言えます。その霊たちが何かを訴えているのか、大勢の足音や話し声を聞いたという体験談も存在します。
心霊現象③井戸で写真を撮ると霊が写る
鈴ヶ森刑場で最も心霊現象が起こる場所が、首を洗った井戸になります。そのため、鈴ヶ森刑場での心霊現象のほとんどが井戸で起こっています。その井戸で写真を撮影すると心霊写真を撮ることができると言われています。
心霊写真の多くが白いモヤが写る写真になりますが、稀に赤い線が入る写真なども撮られています。また、先述した白い着物の霊のように人物が写ることもある井戸です。
心霊現象④井戸の金網を外すと祟られる
鈴ヶ森刑場の首洗井戸には、金網が付けられていて中を見ることができなくなっています。多くの処刑者の首を洗ったとされる井戸になるので、金網を外した人は祟られると言われてます。
あくまで祟りは噂として流れている話になりますが、処刑された人達のことを考えると祟られてもおかしくないと言えるでしょう。
他にもある東京の有名な心霊スポット3選!
有名な鈴ヶ森刑場跡地ですが、過去に処刑場として使用されていたことが心霊スポットとなった原因と考えることができるでしょう。また、同じように曰く付きの心霊スポットが東京都内にはあります。
ですが、東京都内には曰く付きではないが心霊スポットとなっている場所もあります。そこで、最後に東京都内の心霊スポットを一部紹介していきます。
①奥多摩ロープウェイ
約50年近くの長い期間廃墟として残されている奥多摩ロープウェイ。営業していた期間はわずか4年という短かさで、所有権を持つ会社が行方不明になっていることで有名です。特別に、曰くとなる事件が起きた場所ではないが、多くの心霊現象が起きている場所です。
半裸の女性の霊や鏡に映り込む女性の霊などが目撃されていて、写真を撮ると白いモヤが映り込むと言われています。また、物音や足音も聞こえると言われている心霊スポットになります。
②東京湾観音
東京湾観音が心霊スポットと言われているのは、東京湾観音のトンネルでさまざまな心霊現象が起きてるからです。女性の霊を見た人や生首を見た人など、色々な体験談が寄せられている有名な心霊スポットになります。
現在では、トンネルを通行することができなくなっていますが、不気味な雰囲気を見に行くことはできるようになっています。
③平将門の首塚
日本三大怨霊でも有名な平将門の首塚。動かそうとしたら不幸が訪れるとして、場所を変えることができずに残っています。その事から、東京都内では有名な心霊スポットになるのですが、近年はパワースポットとしても知られています。
心霊写真を撮る事ができると言われていて、かつて霊能者が飛んでいる平将門の生首を写したとされています。
「鈴ヶ森刑場」の処刑場を見学してみよう!
江戸時代に使われていた貴重な遺跡。当時の背景や歴史を知ってから訪れると、見る角度も変わり違う楽しみ方もできます。数多の伝説を持つ八百屋お七の、鈴ヶ森刑場に伝わる伝説を調べてみるのも面白いのでおすすめです。
また、心霊スポット巡りで訪れる場合にはお寺の境内にある事も忘れないようにしましょう。最後には、しっかりと手を合わせることをおすすめします。


